お金と恋人

嫉妬という感情を自分があまり持ち合わせていないのだと、実感したことがありまして、それから、恋人というのはお金の問題ではないのだと自分が思っているということも実感したことがありまして、それが同時に起こったことについて、書いて置こうと思いまして、久しぶりに書いております。

かつて私にはですね、長いこと一緒に暮らした恋人がいまして。彼は最初はですね、親や従姉の借金を背負わされて、貧困に喘いでいる状態でして、私の勤めていたバーに「髪の色が自由そうだから」という理由で面接に来たわけなんですけれども、オーナーが採用しろと言ったので、採用しました。

彼はバーテンダーの技術を全く持っていませんでしたので、私が教育係になって、技術を教えることになってですね、はじめのうちはそれはもう、勤務時間内ずっと、つきっきりでやっておりました。はい。

彼はですね、面接の理由の割には、随分と真面目に仕事を覚えようとする人間で、その、稽古をつけている間にも、世間話などするようになってきまして、そのうち彼の生活状況を知ることになったんですけれども、あまりに悲惨なその状況を聞いてですね、私がシェアハウスを持ちかけたという、そういう経緯があります。

ちょうど私ひとりでは家賃が高いということで悩んでいたんで、ガスと水道と電気を私が払って開通させて、それからかかる生活費も折半で払うので、部屋の一室を使わせて貰えないかと、そういうことを言ったんですね。

彼は二つ返事でこれに同意したんですけれども、どうも恋人と別れたばかりだったらしく、同じ、そこは団地だったんですけれども、その同じ部屋にいるとですね、彼女との思い出の曲やらを、繰り返し繰り返し聞いては、涙ぐんだりしてまして、気まずいことも、多々あったんですけれども、生活そのものは順調と言いますか、お互い経済的にぎりぎりでも間に合うようになりましたから、良かったと思っておりました。

そんなこんなでですね、経緯なんかを聞いているうちに、関わりが深くなって来まして、もしかすると、そうですね、もう今や想像することしかできないんですけれども、彼は恋人を失った悲しみというか、さびしさというか、胸に空いた穴のようなものを、私がいることで埋められると、そういう風に思い始めたのかもしれないなんてことを、今になると思いますね。

別れた恋人と、しょっちゅう連絡を取っていたんですけれども、ある日突然、連絡を取るのをやめたと、私に報告がありまして、どうしてだと訊き返すと、私と一緒にいることに決めたからだと、そう言ったのを覚えております。

はじめは意味がよくわからなかったんですけれども、私って人間はそういうところ疎いところがありまして以前から、しかし単純に一緒にいることが嫌か、そうでないかというと、一緒にいる方が随分いいような気がしましたから、それなら一緒にやっていこうと、そういう話になってですね、財布も一緒になり、銀行口座も一緒になり、シェアではなく一緒に生活をするようになったわけです。

随分長いこと一緒に暮らしていましたから、結婚の話も出てですね、彼はあの、婚約指輪的なものを、プレゼントしてくれたこともありました。

それから婚姻届ですね。いつでも記入できるようにと、役所にいってもらってきて、押入れに保管してありました。

途中からですね、彼はあの、裏カジノというものがありまして、そこで働くようになってから随分と収入が増えまして、しかしその分使うお金の額も増えてくるようになったんですけれども、それでもまあ、共同でですね、結婚資金というか、一緒に旅行に行ったりできるようなお金とか、そういったものをですね、ちまちまと貯めていまして、200万円溜まったところで、次は250万円だ!なんてですね、張り切っていたんですけれども。

しかしながら、ある日突然ですね、彼が非常に暗い顔をして帰って来まして、突然私に謝りはじめまして、とにかく謝ってばかりなので、事情を聞くとですね、裏カジノに、働きに行ったのではなく、遊びに行って、200万円のうち180万円を使ってしまったというんですよ。

まあこれは、私がこれ全部、財布だのカードだの、預けていましたから、それは私もバカだったということで、あと20万円残っていれば生活できないことはないのだし、これからまた、時間はかかるかもしれないけれども、少しずつ貯めていこうと、そう言って、彼は怒らない私を不思議がっていましたけれども、あの、なんていうんですかね、協力しあえる相手がいるうちは、ましてや自分が頑張れるうちは、一度200万円まで貯められたのだからという自信もあってですね、まあそれで、遊びに行ったりだの、結婚がどうのだのはできなくなるとしてもですよ、生活していけるんだから、私の好きな音楽もやめなければならないというわけでは無かったですから、どうということもなかったというのが正直なところで、少しも怒る気持ちなんてのは、起こらなかったというのが、正直なところです。

なんですけれどもね、その後彼は勤めていた裏カジノが摘発されまして、それから、神奈川に同じような店があるということで、ディーラーとして、そこへ働きに行くことになりまして、私と彼はそこから別々に暮らすようになったんですね。それから間も無くしてですね、電話で「別れたい」ということを告げられてしまったんですけれども、その理由というのがその、まあ、随分問い詰めましたけれども、彼は同じ職場に勤めている夫婦のうち、奥さんの方とですね、不倫関係になってしまいまして、それで本気で彼女と結婚したいと思うようになってしまったので、私を待たせているわけにはいかないという気持ちになって、それで別れを切り出したのだという、そういう理由で、このときもですね、金はないわ、振られるわとなると、なんだかわけのわからない状態になりそうなものなんですけれども、彼が「お前は本当にいいやつだった。一緒にいて楽しかったし、不満なんかひとつもなかった。ただ俺が、別の人を好きになってしまったっていう、ただそういう勝手な理由で、お前が悪いんじゃない」といったのを聞いてですね、ああ、自分にはそれだけの魅力がまだ無かったんだなと、それだけの気持ちがしてですよ、もう無理かと、何度か尋ねましたけれども、彼が泣き出してしまってですね、もうそれを尋ねないでくれと、一緒にいたくなくなったわけじゃないから、それを尋ねられると本当に辛いんだと訴えるので「わかった。じゃあ」と返事したわけです。正直な話あとでひっそりと泣きましたけれども。これ私が泣いた理由ってのは単にその、今まで心の中にあった支えのひとつを失うという、そして自分を必要としてくれている人がいるという自信を少し失うような、そんな感覚といいますか、一緒にやっていけると、思ってたんですね自分の中ではそれだけ。

それからしばらくは、団地の一室は使い続けてていいという話だったんで、私は一人で団地に住んでたんですけれども、まあ、カードに残っていたお金も、彼の引越しのために使いましたから、ひもじい生活が待ってまして、ひとりですしね、随分とこれは切なかったですし、頭を抱え込んで、たまに納豆を食べてるだけで泣けてきてしまったり、そんな生活をしていたんですけれども、心変わりした相手に嫉妬することも、金がなくなったことを嘆くことも、不思議とですね、これは、ありませんでした。

かといって、彼に対して何の思い入れもなかったかというと、そういうわけでは決してないんですねこれが。寧ろ心変わりしてしまったことを、隠さないで伝えてくれたことに、感謝すらしているわけですこれは本当に嘘でもなんでもなく。

そこで私は気づいたわけなんですけれども、私はお金がなくなることが嫌なのでも、恋人が心変わりしていなくなることが嫌なのでもなく、愛のないことが一番嫌なのだと、それは他人の状態のことだけでなく、自分の状態に対してもですから、やっぱり随分と悩みました。彼は自分から望んで愛人になったわけですけれども、彼女との結婚を望んでいましたので、やはりその、旦那さんのほうが悲しむことになってもですよ、彼女が本気で彼を愛してくれているのならば、彼女が離婚して、彼と結婚してくれればいいなあ、なんて、そんなことまで考えてましたね。はい。

ですけれども、彼女の方は、離婚する気配もなく、1ヶ月くらいですかね、まあその、私に、どうやって電話番号を知ったのかわかりませんけれども、夜中に私に電話をかけてきては怒鳴るわけなんですね。

なんだか「あんたがこの世から消えてくれないと、私たちは延々と喧嘩しなければならない」なんてことを私にずっと言うわけで、私としては全く意味がわからないもんですから「なんでお前らのために私が死ななきゃならねんだこのアホ。さっさと離婚して結婚してやれよ」なんて言い返してましたけれども、一向に止まなくてですね、あげく彼までもが私の仕事中に電話を泣きながらしてきて「彼女がお前がいる限り離婚しない、もう別れるって言うんだどうにかしてくれ!」なんて言うんで「頼むから仲良くしてくれよ」とこっちもお願いするような気持ちで言っておりましたけれども、いつまでたってもこれが終わらないんで、終いには「この世から消えるわけにはいかないけれども、今後お前らからの電話には一切出ないから。着信拒否にしとくから、自分たちでどうにかしろよ」と言って、着信拒否にして、それっきりというものです。

私は彼の選択が正解だったとは決して思わないけれども、恋心というものは、仕方のないものですから、それでも、そんなことがあったおかげで、自分が金が欲しいわけでも、心ここに在らず状態の人間にそばにいて欲しいわけでもないのだということを知ることができたわけですから、いい経験だったとですね、今では思っております。

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何故歌う

何故歌うのか。何故お前は歌うのか、と、ときに、誰もそんなことを私に訊いたわけでもないのにですね、問われているような気がして、答えたくなりました。それは、初めは意識してのことではなかったように思います。幼稚園の頃、歌の発表会みたいなものがあったのか、何か、一人ずつ歌うような、そういうものがあったようで、そのときにですね、母親が山崎ハコさんという方の「織江の歌」という歌を、私に覚えさせて歌わせたようなんですね。

内容はですね、あの、貧しい家の娘が、北九州市は小倉の地へ、身売りに行く前に、どうしてもその、純潔の身のまま行きたくないと、どうせ汚れてしまうならば、ずっと思いを寄せていた幼馴染に純潔を奪って欲しいと、その気持ちを手紙にしたためているといった内容でしてこれ、どう考えても、幼稚園児の歌う内容の曲ではありませんけれども、そんな、純潔だの身売りだのと分からない年齢なものですから。しかし、これが思いの外上手く歌えていたようで、私は幼稚園を卒業せず、途中で抜けて引っ越すことになったわけですけれども、その後、その幼稚園から、歌の発表会で優勝したんだよといったようなお知らせを頂いたのだそうです。今となってはですねこれ、母親独特の暗いというか、あの、子どもにでも歌えるものならばこのような深刻な、悲しいような歌をですね、歌わせようという、そういった感覚というか、なんでしょうね、ちょっと変わってますね私の母親もですねしかし、私はお陰でその、幼い頃から大人の事情と言いますか、そういったようなものを歌った曲を、理解できるようになったようなところがありまして、やはり、母親の影響は、大きいと言わざるを得ないところがですね、はい。あります。

その後はですね、あの、味を占めたわけですかね、母親は、あの、私にですね、演歌を歌わせるようになりまして。もうこれは本当に、五歳とかの頃からですね、私はですね、中森明菜さんがカッコよくてですね、本当にもう好きで、中森明菜さんになりたかったんですけれども、こっそり、真似して練習したりしてですね、完璧に覚えておったんですけれども、母親が歌わせたかったのは演歌でして、特に、美空ひばりさんですね。彼女のあの、人生になぞらえていたのであろうと、今になって少し思うところあるわけですけれども、「悲しき口笛」などを覚えさせられてはですね、あらゆるカラオケ大会に出演させられてまして、小学生の頃にはもう、カラオケ大会破りなんて呼ばれるようになってまして、そういう過去があったわけです。ちなみにですね、初めて覚えた演歌は「氷雨」という曲でしたね。どなたが歌っていたのか、ちょっと失念してしまいまして申し訳ございませんけれども、えー、調べました。日野美歌さんという演歌歌手の、方ですはい、その曲です。はい。簡単に内容を説明しますと、失恋してしまって、自棄酒を呑んでいる女性の歌といった感じでしょうか。はい。そんな感じです。そこでまだ五歳ですんで。はい。

ちょっと原点に還って歌ってみましょうかね、そんな気持ちになりましたので、ちょっとこれから、歌ってみます。はい。

あれ、朝歌ったせいか、声がカスカスで、ダメですねこれ。ともかくその、演歌をいろいろと歌っておりまして、そしてですね、十代に入ってから勝手にですね、演歌から離れて、本当に勝手に、ギターを弾いたりするようになりまして「ギターを弾くなんて言い出して、お前はあの、人を人とも思わないような生みの父親の血を引いているのか。」なんて母親からは言われておりましたけれども、非常にですね、楽しくてですね。中学のときの軽音部なんか、非常に、ベースを弾いておりましたけれども、指が紫色になって痛かったですけれども、それでも、放課後に、双子の友達と音楽室に篭って、リコーダーでカノンを吹いたり、指から血を出しながらピアノを弾いたり、私は本当に音楽が好きでした。

高校に入ってからは、プロダクションに所属して、歌の練習をしておりました。十九歳まで、三年間、考えてみれば、短いですね。松田聖子さんに歌い方がそっくりな同期がいまして、彼女がですね、支所長の一番のお気に入りでしたね。私はその時期、その頃はまだですね、日本人の女性は本格的なR&Bなんぞ歌っておりませんでしたが、ホイットニーヒューストンなんか歌っておりましたが、全く、全く良さが伝わらずですね、で、同期はしょっちゅうレッスンをサボって男と遊び散らかし、私は真面目になんでも歌い続け、結果、ついに私のプロモーションを撮影して売り出そうということになったんですけれども、私もですね、満を持してという感じでですね、撮影に臨みましたところ、途中でずっとサボっていたその同期が、ひょこっと顔を出しまして、それで、私はもう帰っていいと、言われてしまいました。要するに、彼女の撮影に切り換えるから、お前はもう要らないというわけです。

さすがに、泣きながら帰りましたね。しかし、一生懸命歌なんか歌うんじゃなかった、と思ったのは一瞬のことで、バーテンダーになってからしばらくして、二十歳の頃ですね、バンドをやっている人々との出会いがありまして、私の歌を聴いたみんなが非常に喜んでくれまして、歌を教えて欲しいとか、一緒にやって欲しいとか、言うようになったわけなんですね。その頃から、自分で曲を作り始めて、今に至っております。

途中、スカウトされたりですとか、レーベルに所属したりだとか(そのレーベルは潰れてしまいました)しておりましたけれども、ギタリストとの兼ね合いも有り、要するにですね、スカウターの人は、曲を作れて、作詞もできて、歌えるならギタリストは要らないというわけなんですね。しかし、当時一緒に組んでいたギタリストからすればそれは、不安というか、嫌なような、そんな気分がして「お前は俺を見捨てるのか」と、私を責めたわけですね。それで、私も会社に入るのを諦めて、彼と一緒にやる道を選んだんですが、最終的にはですね、今現在は彼はプロのギタリストになり、私が素人になっているというね、逆転現象ですこれ。

どうしようもないんですよ。歌ってないと死にそうなんですよ。歌ってないと気持ちが落ち込んで、狂ってしまいそうになるんですよ。正直に言って、歌うことに中毒性があると言って過言ではないとですね、私は思っているわけでして、歌はもうこれ、ずっと歌っていたいというのがですね、あります。約束も、したのでね。約束です。二十九歳でマンションの十三階から飛び降りて自殺した友人が、死ぬ一週間前に、私に「死ぬまで歌をやめないでくれ」と言い、私は「分かった」と返事をしたので、これは今生の約束となりました。

そんなわけでですね、歌うんです。時代が私の味方をしてくれていなくても、私が私の歌を、歌うんです。人生におやすみを言うまで。

暴力

あの、これはですね、決して珍しいことでも何でもないとは思うんですけれども、私ですね、非常によく、母親に、殴られたり蹴られたりしておりまして、初めてそんなことがあったのがいつだったのか、記憶は曖昧なんですけれども、恐らくですね、妹がまだ小学校に上がっていないくらいの頃からですね。というのも、母親はその時期、夜、お店を開いて働いてまして、所謂「ママさん」という役職、役職って言うんですかねこれ、よくわかりませんけれども、そういった生業でですね、夜家にいなかったわけで、そうするとまだ幼い妹はですね、この妹がまた、眠くなると愚図る性質でして、母親がいないとなるともう、手に負えないわけです。

なんとか、あやすんですけれども、これ母親でないとどうにもならないところがあるわけなんですねえこればっかりはしかも!私と妹は三つしか離れていないもんですから、私もそれなりに幼いわけでして、癇癪を起こしている妹に辟易して「やめろ!」なんてことを口走り、それに腹を立てた妹が、子ども叩きと言うんでしょうかね、あの、両手をぶんぶん振り回しながら攻撃してくるという展開になり、それをですね、こう、手で、これほんとですよ、別に自分を悪く見せないために言葉を選んでいるわけでもなんでもなくてですね、手で、押し退けたわけです。そうすると妹がですね、母親の店に電話をかけてですね「姉ちゃんが殴った!泣いてもやめてくれない!助けて!」とですね、こう言うわけなんですね。そうすると、母親が飛んで帰って来まして「お前は何をやってるんだ!」と、これ当然叱られるわけです。それで、私の方は何があったのかということをですね、必死に説明しようとするわけですけれども、これはあの、母親にとっては言い訳でしかないわけで、恐らくそういうわけなんですけれども、いや、違うんだと、言い終わる前にもうビンタがですね、あの爪の長い、鋭い手でですね、飛んできて「あんたが妹にやったことはそういうことなんだ!痛いと思うなら二度とやるな!」と、そう言うわけです。これですね、思うに、痛いのは暴力だけではないという、この事実です。私なんかですね、言わせて頂ければ、別に母親に殴られなくたってですね、妹に散々子ども叩きやられてるわけですから、痛いのはもう重々承知のわけでして、そんなことよりもですね、母親が私の言い分を何故聞いてくれなかったのか、何故初めから私だけが悪いと母親が判断したのかといったことがですね、非常に胸に痛かったわけです。

あの、急に話が飛びますけれども、理由は忘れてしまったんですが、高校一年の頃ですかね、いや、理由は覚えておりますね。私ですね、歌を歌っておりましてそのとき、ユニコーンのですね「甘い乳房」という曲を、泣きながら歌ってたわけです。それを聞いた妹がですね「何浸ってんの?自分に重ねちゃったりしてるわけ?バカみたい」というようなことをですね、言ったわけです。それまでですね、本当に、一つ一つの理由は覚えていませんけれども、私は母親にですね、殴られ蹴られということが非常に沢山というか、日常的にありまして、掃除機のホースでですね、殴るわけです。何故手でやらないのかというと、自分の手が痛いからだと、母親はそう言っておりました。それでですね、あの、殴られすぎて、私の反応が無くなるとですね、今度は蹴るわけです。そうすると私は転んでというか倒れ込んでしまったりしてですね、母親は腹を蹴って、何度も蹴って、私が土間に落ちるまでですね、それが続くわけです。そして私が土間に落ちると、上から踏む、そうして、私はだんだんとですね、意識を失っていくわけです。そういったことが続いてたわけですから、当然ですね、文学やら音楽やらに救いを求めては、涙を流すなんていうですね、センチメンタルなことをするようになっていったわけなんですが、これをですね、笑われたことが許せなくなりまして、これ長い間のこの、蓄積ですね。爆発っていうんでしょうか、本気でですね、妹を殺そうと、しました。はい。首を絞め上げて、馬乗りになってですね、何か怒鳴っていたのを、覚えております。その音を聞きつけてですね、母親が来て、当時住んでいた家は二階建てだったんですけれども、あの、階段を引きずり下ろされまして、また殴る蹴るの暴行が始まり、そのときはあの、母親の知人がいまして「もうやめてあげたほうがいいんじゃない?」なんて言ってましたけれども、母親はですね、そんな言葉でやめるはずもなく、やはり最終的に私が土間に転がって、涙を流しながらすーっと意識が遠のくまで、暴力を止めなかったわけです。

いいですか皆様、私にはですね、そういったわけで、暴力というものが何を意味しているのか、全くわからなくなってしまったわけです。

積年の恨みくらいのことはわかりますけれども、日常的に行われる暴力とは、一種の甘えなのか、言葉で言えないことを暴力で語ろうとしているのか、やはりですねこれは、本人にしか知り得ないことでして、しかもですね、母親は今はもはや、私にそのようなことを日常的にしていたということを、全く覚えておりません。

一生懸命に、子どもを二人育ててきたという、そういう記憶しか、残してはおらんのです。

結局ですね、あの、暴力はですね、はい、否定も肯定も私にはできないという状態になってしまってはおりますけれども、大事なのはですね、暴力をしてしまうときのその、その人の気持ちでありまして、どうしてなのか、そこをですね、分からないことが、受ける側にとってはとても痛い。単純に痛いです。ただ、ひたすら、本当に、とても。

痛いんですね。

一度何かのときに母親にですね、私はまだ子どもだったとおもうんですけれども、父さんのことを愛していたから結婚したのかというようなことをですね、訊いたときに、母親が「私は本当は、誰も好きになったことがないのかもしれない」というようなことを、本当にそのときは、素の状態というか、ぼんやりしたように答えたわけです。直感的にそれは本音だということはわかったけれども、それ以外のことは何も分からなくてですね、私も、ぼーっとした状態でそれを聞いていたわけですけれども、なんだかその瞬間にものすごくいろんなことが頭を駆け巡ってですね、つまり、その時の母には、私と、妹、という、2人の子どもがいたわけで、これ、愛してない人間との間に生まれた子どもということになるわけですけれども、そういえば母親は、子どもを自分の分身のようにおもっているというようなことも、言ってまして、つまりその、分身ができたことと、その、相手を愛していたかどうかということは、なんだか別個に考えたほうがいいような、そんな風にも、思えましたね。

 大人になってですね、あのときの母のことを時折思い出してですね、本当に人を好きになったことなどあったのだろうかというですね、自分の中でも疑問がですね、ふつふつと湧いてきまして、私は優しくしてもらえたから、好意のあるような素振りを見せられたから、それについて行って、それだけではないのかと、まあ、そのあとも色々とありましたけれども、それが人間模様というものでしょうけれども、始まりがあまりにもお粗末だとおもうような、思ってみれば、ことだったりですね、しましたね。喧嘩もしますね、しかし、喧嘩して、どうなりたいのかっていうと、これさっぱりわからないんですね。そもそもなんで喧嘩したのかも忘れちゃったりしてましてですね結局。ただ、あの、不思議な感覚がありまして、あったんですよ、こう、例えばその、交際をしている相手を、ぼんやりと見ているときにですね、そのときは喧嘩もしていなければ、何も考えてないというか、ぼーっとただ、見ているときにですね、突然稲妻のようなものが頭から胸に走って、刺さってくるわけです。そのときに私は思っているわけですよ。「あ、こいつとはいずれ別れる日が来るんだ」と。これ非常に辛い思いでして、そのときはべつに別れたくはありませんから、かといってずっと一緒にいたかったかと訊かれてみればですよ、今になって思えば、そんなこともないというですね、これはまあ、失ってしまったからそう思えるということも、あるでしょうけれども、しかしまあ、稲妻の走ったやつとは全て、お別れしてまして、なんでしょうねこれ。でまあ、その、それらを、その人らを、みんな、そのときにですよ、好きだったのかと、愛していたのか、と訊かれればですね、やはりこれが、母と同じでして、わからないんですねーこれが。なんというか、自分を、保っていたようにも、思えて来るという、そのときはですね、そういう相手なしに自分の魂の姿をきちんとした形で捉えることが、自分で出来ずにいたような、そんな気持ちも、してくるわけですよ、ええ。相手が「おまえはこういうやつだよ」と言えば「ああそうか。私はこういう形をしていたのか」というようなですね、それが誤解や偏見に満ちていてもですね、自分の姿形がはっきりとはわからないためにですね、私はそれを教えてくれる人間を、欲しがっていたような、そんなまあ、幼い時期に、なるんでしょうかね。確実にまあその、相手が求めていた恋愛の形とは、全く違っていたであろうことが、簡単に想像できるわけですけれども、まあ私の場合あの、そういった幼い時期が異常に長く続きまして、今になってですね、ようやくですよ、相手を迎え討つ自分像が出来上がってきたというようなところがですね、今になって本当にようやくといった感じでですね、ありますよ。

 自分でも自覚はしているんですが、私という人間はこれ、愛の不足した人間でですね、愛情不足というやつですねこれ。「栄養失調」みたいな言い方をしてますけれども、いやほんと、これはあの、まあ、言ったらその、心の栄養失調みたいなものですからね、我ながら上手いこと言ったような気もしますけれども、そうでもないか。いや、本当に、愛情が不足しているというかですね、愛って何?という状態がですね、非常に長かったもので、その、仲良くしてくれる人間だとか、そういうものを見付けると、そこに居たがるというようなですね、厄介な性質がありまして、まああの、端的に言いますと、勘違いしましたね、非常に。あの、思春期にはですね、同級生やら、学校の外の友人やらに、よく言われたんですよ。「一期ちゃんが男の子だったら、絶対好きになったのに」ってですね、そういったことを、そこでですね、じゃあ男になったらいいんじゃないかと。男になったら愛されるんじゃないかという、単純な思考に陥ってしまったのが当時の私でですね、はい、ちょうどですね、生理も18歳、高校卒業後までですね、始まらなかったものですから、母親からは「カタワ」なんて言われてまして、自分でも何がなんだかわからなかったですけれども。それでもう、男ということでいいんじゃないかと思い始めてですね、なんだか気がついたら、女を捨てしまっておりました。何だかですね、文化祭でユニコーンを歌ったりだのしてですね、非常に女の子にモテましてこれ、チョコレートもたくさんもらいましたけれども、これは、誕生日がバレンタインデーに近かったという理由もあるでしょうけれども、まあとにかく、女でない方がいいこといっぱいあったわけで、女辞めました。

 ってほど、簡単にはいかないんですねー。やはりですね、子宮がある以上はですよ、意識の外でも様々なことが起こってきたりしましてこれ、この年頃は本当に、健全というわけにはいきませんでしたね私は。高校卒業してですね、急いで恋人を作りました。プロダクション関係で知り合った友達の開催する飲み会でですね、ひとりで大量に飲まされて急性アルコール中毒で倒れそうになっていたいじめられっ子の男の子をですね、助けたらば、まあ、その場で惚れられてしまいまして、私はその、迷っていたんですが、当時のその友達の言うことによるとですね、そんなまあ、身構えるようなことではないんだと、いいよと一言返事してしまえば始まるものだし、嫌なら嫌になったと言えば終わるものだからと言うわけですよ。一旦いいよと返事してみなよと、いうわけで、私は「いいよ」と言いました。いやしかし、恋愛というものは思ったより、えげつなかったですね。粘膜接触だの、股を開いて他人の性器を挿入されたりだの、何故だかわかりませんけれども、私なんかは、悔し涙流しておりましたね。一体自分は何をやってるのかと。

 こんなことをするために生まれてきたんじゃない!というわけで、別れはしましたけれども、あの、これは、本当に自慢ではなくてですね、候補者は若ければ次々と、現れてくるわけなんですよ。このときもですね、とっくに縁の切れた友達の言っていたことを忠実に守って、とりあえず「いいよ」と言う状態が続いておりました。で、悔し涙を流しては、お別れというですね、いつもの流れです。そんなに嫌なら「いいよ」って言わなきゃいいのにってですね、言われもしますよそりゃ、しかし、しかしですよ、誰が恋人になったら粘膜接触をせにゃならんと、膣に陰茎を突っ込まれなきゃならんと決めたんだという反感がですね、こう、むくむくと私の中に湧き起こってきておりまして、ようするに、愛あるからこそ、触れ合うのだということを、私は知らないままそこまで来てしまったわけで、そうすると、母の言っていたことがまたよくわからなくなってきてしまって、非常にここ、どこにも線が引けないような、わけのわからない状態になるんですが、非常に痛々しいこの青春時代をですね、取り戻すべく、そう、精神の繋がりが、私の最も欲しがっているものなのだとわかった今、ようやく精神も何もかも全てピタッと、欠けていたピースを埋めてくれるように、現れた!その人が!結婚していた、というわけで、あともう一息なんですよみなさん。私が残念な人間でなくなるまで。過去を引きずらず、足りなかった愛情を悔やむでもなく、与え、埋め合わせて、幸福になれる、一緒に歩いていける、笑顔の未来へ、そう、そういう人に会いたい!!と思いながら、今日もおれは独り、孤独に歩みを進めるわけです。

自己紹介

初めまして。初めましてではない方もいると思いますが、私は塚本一期と名乗るもので、本名は沼山愛と申します。塚本一期は筆名で、塚本は、母方の旧姓で、一期というのは、一緒に暮らしていた猫の名前で、その猫が死んだから付けたのではなくて、生きているときからお揃いの名前にしておりました。
筆名を使うことにした訳は、名前があまりにも、表現をするのには女らしくて、どうも偏見のある方にはその、女だという意識が先に働いて、作品に響くのではないかということが、なんとも嫌で、男でも女でもいいではないかという、そういった気持ちからの、しかし塚本一期は、読みは「つかもといちご」と読み、字面は男っぽいものの、読んでみれば可愛らしい名前でもあります。
作品というのは、私の書いている売れない詩や、売れない曲のことです。長いこと、子どもの頃からずっとやってきたのにも関わらず、何の才能が足りないのか、どこに挑戦しても、頑張っても、評価されることはほとんどありません。それでも私は売れたいのです。売れたいというよりも、たくさんの人に聞いてもらいたいことがあるのです。私は多分、きっと、正しい。間違っていても、ドジでも、間抜けでも、人間である、という意味で、コンピューターのようにはならないという意味で、野心を持っているという意味で、そういう意味で、正しいのだと、自分を信じて生きているので、そうして生きていける人が、そして幸せを願っているので、幸せになって欲しい、そして、落ち込んでいるときには、私を見て元気になって欲しい、だから、みんなに見てもらいたいのです。
1978年2月10日生まれ。離婚したことのある独身です。離婚は、結婚からして離婚のような結婚でした。なぜなら私は、恋もせずに、歯が痛くて、虫歯が酷くなりまして、しかしその当時は仕事も保険を払うお金も無く、そのようなわけで「入籍すれば歯医者にいけるよ」という言葉に甘えて、結婚したという訳です。なんという馬鹿な、と言う人もいるでしょうが、そのくらい歯痛というものは堪え難いものがありまして、これが毎日続くと死なないのに死にそうな、酷い状態になってしまうわけです。正直言ってものも正常に考えられません。そもそも仕事もお金も無かったことが悪いのですが、どうか責めないで頂きたいんですね。なぜなら私は、生きることが非常に不器用でして、これも詩やら音楽と同じく、どんなに頑張っても、いじめられたり避けられたり、私からしてみれば意味のわからないことで叱られたり、嫌がらせをされたりしてばかりで、面接も落ちまくり、どうにもこうにもならなかったわけです。
このどうにもこうにもならなさは、今でも続いており、2017年8月現在で、ようやく採用になった仕事の3ヶ月目になります。安定した仕事を続けていくことが何故他の人に出来て、私に出来ないのか、私にも分かりません。自分を責めたこともありましたが、自分を責めても、どうやったら他の人と同じようになれるのか、全く見当もつきませんでした。
他の人と言えば、驚くほど暴力的だったり、ヒステリックだったり、自分勝手だったりと、私から見れば問題だらけなのにも関わらず、何故かずっと同じ場所で働いたり、結婚したりするものですから、本当に未だにわけがわかりません。
話が逸れましたが、何故離婚したのかと言いますと、結婚相手は可愛い弟のようなもので、性的な関係はございませんでした。そして、結婚相手の父親、これが私にとっては耐え難い人格の持ち主で、納豆をですね、練り練り練り練り、お椀の中でする訳ですが、そのお椀を、決して洗ってはいけないというわけです。夏場に、1ヶ月も2ヶ月も洗わずに放置したその納豆用のお椀は、酷い異臭を放ち、台所がもう大変なことになっておりまして、それだけではなく、彼はその、風呂に入らないわけで、たまに風呂に入った後は、湯船に垢かフケかわからないですけれども、白い粉が湯船いっぱいに浮かんでまして、その中に入らなければならないわけです。彼自身からも、もの凄い異臭がするわけですけれども、それだけではないんです。これはですね、非常に文字でニュアンスが伝え辛いんですが、私はこの福島に来る前、あ、私は現在福島で生活してるわけですけれども、福島に来る前は、福岡県の北九州市におりまして、だからと言って生まれが福岡県というわけではなく、生まれたのは千葉県で、幼い頃からあちこちに引っ越しておりまして、そういう事情があるわけなんですが、ニュースで福岡県が出るたびに「お前んとこだべ」「お前んとこだべ」とうるさかったりですね、とにかく決めつけが多い。このことが私の神経に障ってしまったわけです。あのですね、誰もが生まれたところで死ぬまで過ごせるわけではないんですよ。数え始めるとキリがないのでちょこっとしか話せませんが、最終的に、極め付けが、女なら夜のお務めをしろという発言でした。私は「出来ません」と答え、家を出たわけです。
そのとき、私は初めて恋というものをしまして、家を出るのにもお金がないため、短期のバイトを始めたわけなんですけれども、そこで出会ったのが、現在の恋人なわけです。批難されることを承知で申し上げますと、彼は結婚しておりました。ですので、私は早く彼を諦められる状況を作ろうと、今現在も必死で、仕事をしたり、自分の音楽を作ったりものを書いたりすることに集中している次第です。

私の生まれは千葉県なのですが、母の話によりますと、父は妊娠した母を嫌がり、別のいろんな女を連れて遊び回り、家では暴力が酷く、身重の母を(中に入っていたのは私なんですが)階段から突き落としたこともあり、母は父を見限って離婚し、親友と、一緒について来ると言った若い男と一緒に、九州へ行ったのだそうで、私の記憶が曖昧でない時期になった頃には、母は結婚しており、ちゃんと父親はいましたので、私はその父親を実の父だと思っていたのですが、小学校五年生あたりの頃ですかね、これはあんたの実の父親ではないのだと、本当の父親は千葉にいるのだと、母に告白されまして、ああ、そうだったのかとおもいました。しかしですね、私の中ではやはり、本当の父というのは、血が繋がっていなくても、これまでずっと一緒にいた父でありました。その父は、母が離婚して九州へ行くと言ったときに、ついて行くと言った若者だったんだそうですが、忙しい母の代わりに、赤ん坊の私をいつも公園へ連れて行き、遊ばせていたんだそうで、非常に可愛がってくれていたのだと、後で聞きました。
しかし残念ながら、この父とも母は離婚を決めまして、原因は、父の浮気癖と、パチンコ癖だったんですが、浮気してもパチンコしても、家にお金を入れてくれるなら良かったんだそうです。どうやらあちらこちらで借金をつくって、その名義を母にしていたものですから、多額の請求が母の方に来まして、頭に来た母が、父に詰め寄ったようで、母はですね、人を責めるときに、こねくり回したような、とても意地の悪い言い方を、どこで覚えたのか、非常に国語力のある人間で、それが悪い方に働くと、大変相手にダメージを喰らわせるような言い方になってしまうところがありまして、それで頭に来た父が「お前らになんか食わせないぞ!」と言って、米を一升炊いて、かっ喰らっておりまして、さすがの母も、笑ってしまったというエピソードがあるんですけれども、子どもながらに私もですね『この人はなんてバカなんだろうか。腹がいっぱいになってしまうだろうに』とおもいながら、呆然と見つめておりましたけれども、そんな愉快なエピソードがあってもですね、離婚は避けられない事態となりました。
ある日の夜、父がドライブに行こうと、私と妹を誘ったことがありまして、妹はこの父の実の娘になるんですが、私も妹も喜んで父の車に乗ったわけです。そうするとですね、殺気立った様子で母も乗り込んで来まして「どこにいくつもりなの!」と問いただすとですね「みんなでダムに沈んで死ぬんだ」と、父が言ったわけです。「捨てられるくらいなら、一緒に死ぬ」と。
もうそうするとですね、車の中はてんやわんやです。父と母が怒鳴り合って、妹は泣きじゃくって、母は助手席のドアを開けて、私に「妹を庇って今すぐここから飛び降りろ」とですね、凄いスピードで走っている車の中で、無茶なことを叫んでるわけでして、流石の命知らずの私でもですね、ちょっとそれは出来ないなというような、こう、地面を見るともう、ああ、これはもう、運が良くても死ぬな、とおもうくらいのスピードで、そんなことを考えながら座ってるとですね、急になんだかその、今いる状況が非常に滑稽に思えて来まして、なんなんだこのカオスな状況は、というのがありまして、笑いが込み上げて来て、これがもう、堪えられないんですよ。当時、いくつだったのか、覚えていませんけれども、小学生だったのは覚えております。もう必死で笑いを抑えてですね、これは笑ってしまうと本当に、母に殺されかねませんので。しかしですね、笑いというものは、堪えようとすればするほど、堪え難いものになっていくわけで。それで、顔を覆って、肩を震わせていますと、母が「あんた!何笑ってるの!」と、バレてしまいまして、正直に言いますとね、こんなバカな父が暴走して、母が怒って、妹はワガママで弱虫で、そんな家族を、私は愛していたんですね。それで、答えました。「喧嘩ばかりしてきて、みんな辛かったけど、もし一緒に死んだら、天国で笑って暮らせるようになるよ」と。そうすると、車がですね、スッと停まりました。見るとですね、父が泣いてるわけです。バカなことして悪かったと言いながら、ぼろぼろぼろぼろ、泣くわけです。そのとき私は知った気がしました。大人は、自分より随分大きくて、声も大きくて、態度も大きくて、強いと思っていたんだけれども、自分とあまり変わらないのではないかと、そんな気がしたわけです。
父が本当の父親ではないことを母が私に告げたのは、実は離婚をするにあたって、一人で子どもを二人育てる自信が無かったためでした。とても悪いことをしたんですが、母の日記をこっそりと、読んでしまいまして、そこにそう書いてありました。そこで、千葉の父に電話を掛けさせて、引き取ってもらおうと、母は考えていたわけなのですが、非常にあっさりと断られまして、腹を立てた母は、散々その千葉の父が如何に最低な人間なのか、いや、人間ですらないというような話を、私にして聞かせるわけです。何より鏡を見るのが大好きで、確かに美しい容姿をしていたようですけれども、誰よりも自分のことが好きで、人を人とも思わないような人間だったと言うわけですけれども、素朴な疑問がありまして、では何故母はそのような男と結婚して、子どもまで産んだのだろうかと、未だに解けない謎となっております。
育ての父の話に戻りますけれども、私が十二の頃ですかね、いや違いますね。中学の頃、学校から帰ると、父がいて、母と妹は逃げていて、私はどうしたらいいんだというようなことがありましたので、その頃でしょうか、いよいよ離婚して、離れ離れに暮らすことになり、お別れを言いなさいと、母に言われたとき、私は父に「どこに行っても、私のお父さんは、お父さんだ」と言い、父は「おれはお前を、実の子じゃないなんておもったことは、本当にただの一度もない!」と言って、泣き崩れたのを覚えております。
彼は今でも、私の、そう、人間としては未熟で、バカなところもたくさんあるけれども、それでも私の大切な父親であり、唯一無二の存在なわけです。